2014年12月7日日曜日

知人の死と忌野清志郎の死が、私の中ではなんか似てるなぁと思ったこと。

先週、お世話になった方がお仕事中に急死されまして。41歳で、前日はまぁ元気に忘年会に出られ、カラオケまで歌われたそうで、Facebookにもそのことが少し書き込んであったりなんかして。
その方とは、それほど多く出会うわけではないですが、なんやかんやと一緒に何かやることがあり、多少親しくなったつもりでおりました。
お通夜に出るまでは、イマイチ亡くなったことが理解できず、何かの冗談なのではないかと思っておりましたが、葬儀場に着き、入り口から入ってすぐのところに遺品が展示されており、その時点でやっと理解したというか。
それでも通夜が終わって帰ってくると、なんだかまた冗談のような気がししてくるんですよね。
今って、Facebookなどで亡くなった方のログなんかも見れますよね。あれ?最近更新されねーなぁ?くらいな気になってしまうんです。今はご冥福をお祈りしますというメッセージが書き込まれてますけども。
なんとなく忌野清志郎が亡くなった時に思ったこと、感じたことに似てるなぁなどと。もう会えないんだなぁ、結局ライブ一回も行けなかったなぁ。うちの近所まで来たことがあるのだから、時間作ればよかったなとか。忌野清志郎が亡くなった時には、そんなことを思ったのです。アナログやデジタル、各種記録媒体が残ってますので、忌野清志郎の姿や歌声などはまだ聞くことが出来るわけですが、もう会うことはできなくなります。2009年に亡くなり忌野清志郎を口ずさむ度に、あぁ亡くなったんだなぁなどとぼんやり思うのです。死もコンテンツとして消費されていく、などと意識が高いんだかなんだかわかんない人が言ってましたが、なんだか私の中では冒頭の知人の死も同じように消費されているのではないか、と考えてしまいました。
消費され、風化していくのでしょうか。思えば身近な老人以外の人がなくるのって初めてでした。こんな風に感じたのは、Facebookのせいじゃないだろうか、と思うのです。人がコンテンツとして扱われるSNSにおいては、人の死すらコンテンツとして消費されてしまっているのでしょうか。
今後、自分の中のこの感覚がどのようになっていくのか、ぼんやり観察しようかと思います。